ニュースで映像を見ていたら、
自分のオキナワの旅を思い出してしまいました。
この旅は写真は一枚も無いのですが、
オキナワのいろんな面を垣間見た
とても印象に残る旅でした。
そしてこのブログ<1>の2007年5月、
記事にした文章があるのでそのまま転記します。
「オキナワの雨 #1」
湿気を帯びた曇天の梅雨の頃にいつも思い出される感覚、
オキナワの旅のこと。
「涙そうそう」などの世間的な沖縄ブームの少し前、
2002年初夏の頃でした。
何がキッカケだったかは忘れたが、
急に思い立ち、週末に沖縄本島へ飛ぶことにした。
その前にどうしても気になることがあった。
日本人として知っておくべきことのひとつ、
「ひめゆり学徒隊」のことだった。
図書館で関連の本を2冊ほど借りて読んだのだが、
地上戦の惨状が想像以上の内容で、
相当に気が重くなってしまった…。
そして当日、雨の中「めんそーれ」の文字に
迎えられ、那覇空港に降り立った。
まずはレンタカーで国道58号線を北上し、
北谷周辺を周りその後、中心地の国際通りへ。
途中、路上でシルバーを売っている彼に市場近くの
美味い定食屋を教えてもらい、本場のゴーヤチャンプルを食す。
蒸し暑い気候に、オリオンビールがさっぱりと美味い。
「オキナワの雨 #2」
翌朝も雨が降っていた。
那覇市街を南下し糸満市の「ひめゆり平和祈念資料館」へ向かう。
途中、本に出てきた地名が次々現れた。
戦没者の魂がさまよってる感じすらした。
すでに気が重くなってきて、資料館も通り過ぎようかと
思ったが、ここまで来たからと気を取り直す。
入り口で献花し手を合わせる。
展示物を見ながら進んでいくと、高齢の女性が訪問者に
一生懸命何度も何度も説明している。
ひめゆり学徒隊の経験者でここで語り部として
我々に伝えているのだ。
その姿を見たとき、相当な衝撃を受けた。
本を読んだ時は、遠い昔のような感覚だったが、
現在もご健在であるように、そんなに昔のことではないのだ。
思い出すのも辛いであろう、当時の出来事を話す彼女を思うと
もう涙が出そうだった。
出口近くのベンチで、中庭の雨を見ながら呆然としてしまった。
感想を記すノートには
「とにかく我々に出来ることは、命を粗末にしないこと」
そんなことを書くのが精一杯だった。
そして、本を読んで気になっていた場所、
本島南端の喜屋武(きやん)岬へ。
陸からは米兵隊、海は埋め尽くすほどの米国の軍艦。
鬼畜米兵、捕虜になることも許されない教育のもと、
ひとつの手榴弾で数人が肩を組み、自らピンを抜いた人たちの
ことを思って悲しい海を見つめました。
今でも地元の海で、曇天の重い空の日は
この日のことを強烈に思い出します。
さとうきび畑を抜けて、沖縄自動車道で一気に北上。
この時、車内のFMから流れてたイーグルスの
「ホテル・カリフォルニア」が妙に悲しく胸に沁みます。
絶景の万座毛を訪れるころには空は快晴に。
そして嘉手納基地の周辺へ。
ずっと車内でAFN(旧FEN)を聴いていたせいもあるが、
この辺りはアメリカっぽい日本なのか、
日本的なアメリカなのか、不思議な感覚に陥りながら、
ゲート近くの店でタコライスを食べたっけ。
このオキナワの旅は、深く内面的にいろいろ考えさせられたし、
三線の音色が悲しく胸に響きました。
またいろんな文化が混在するこの土地に惹きつけられ、
しばらくオキナワマイブームが続き、
密かに移住計画も考えたほどでした。
世間的にブームになって冷めましたが…。
okaにとって忘れられない旅のひとつです。
Mr.Childrenのアルバム「B-SIDE」に、この当時も
よく聴いていた「1999年、夏、沖縄」が収録されたこともあり、
最近オキナワのことを思い出していました。
《後記》
以上が2007年5月の記事そのままなのですが、
今もこの梅雨時の蒸し暑い曇天の日には
この時のオキナワを思い出したりもします。
オキナワの悲しい歴史も忘れてはいけませんね。
NO WAR, NO NUKE!